第58話   名門「陶山家」と庄内竿   平成15年11月14日  

庄内竿の完成者である陶山運平は士族の三男である。よって陶山家では、当然の様に分家させたので、陶山運平の生活は苦しいものであったと云う。

陶山運平は生活のために竿を造り、更に釣針を造りを生業とした。彼は庄内竿の完成者として知られて有名となったが、更に長兄陶山槁木(「垂釣筌」を著した)より焼針の工夫を伝授され鶴岡の地針の始祖とも云われていた事は案外知られていない。現存する最古の庄内竿は運平の作(三間四尺)と云われ代々陶山家に家宝として伝わっている。

竿師としての陶山運平は竿造りの技術を上林義勝に、そして地針の製法は中村吉次に伝えた。上林義勝の竿造りは昭和初期まで丹羽庄右衛門亡き後の明治、大正の名人とされている。中村吉次は針の外、竿造りにも精を出して自分の釣りに合わせた多くの竿を作っている。中村吉次はどちらかと云うと実践向きの竿としての評価が高く、上林竿に次ぐ評価であった。ただ活躍時期が名人上林義勝と重なったが為に、二番手とならざるを得なかったのが惜しまれる人物である。

陶山家の血を継ぐ者に昭和の名竿師山内善作が居る。この山内善作は陶山儀成(陶山槁木の孫)の長女まさの長男で若い頃から鶴岡市の役場に勤める傍ら竿作りに異常なまでの熱意を示した。

陶山家と云う名門の血と竿師であった父の血がそうさせたのかも知れないが、惜しむらくは竿造りに専念できたのが、わずか退職後の数年と
(昭和1553歳没)短かったのが惜しまれる。この人物特定の師は居なかったが、陶山家の祖父の気に入られる竿を目指し、尚且つ自分で使ってみて実践重視の竿作りに励んだと云う人物であった。其の竿は陶山運平、丹羽庄右衛門、上林義勝、中村吉次等の先人達の基本をしっかりと守り、それに独自の工夫を加えて新境地を開いたという評価があり、名竿師の系譜の中で最後の名人といわれた人物である。